【対談 vol.03】生きていることへの真摯さが理論と実践をつなぐ(岡部美香×堂目卓生)

学術知共創プロジェクトマネージャー・堂目卓生(大阪大学社会ソリューションイニシアティブ長・大学院経済学研究科教授)と、人文学・社会科学の研究者を中心とした人びととの対話から、人文学・社会科学が社会に果たすべき役割、共創の場を創るヒントを模索します。

◆今回の対談者の紹介

社会全体として諸課題に向き合い、解決するための「知」を創り、解決のための行動に移していくためには、これらを担う人を継続的に育んでいかなくてはなりません。この意味で、「教育」は最も重要な営みです。長期的な社会変革は教育次第であるといっても過言ではないでしょう。このような問題意識に立ち、今回は、教育を人間とは何かという視点から研究するとともに、教育現場との実践的な関わりも持ちつづけてこられた岡部先生に、今後の教育を考える上で充てるべき焦点についてお話しをうかがいました。

岡部美香 大阪大学人間科学研究科人間科学専攻教授

大阪府生まれ。1997年大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得満期退学、2000年博士(人間科学)。愛媛大学教育学部講師、京都教育大学教育学部准教授等を経て、2019年から大阪大学大学院人間科学研究科教授。教育思想史学会理事、日本学術会議会員(排除・包摂と教育分科会委員長)、大阪府教育委員。20年以上にわたり、人間の発達・生成と教育にかかわる言説に作用する政治力学をテーマに研究を継続。2020年から「マイノリティ教育ラボ」を共同で立ち上げ、学生や地方自治体・地域の人々とともに、外国にルーツのある子どもたちへの支援や夜間中学校におけるリテラシー教育に関する研究活動等に取り組んでいる。

「知らない、わからない、できない」の価値

堂目 岡部先生は教育学がご専門ですが、どのようなことに関心を持ってこられたのでしょうか。

岡部 私は大阪大学人間科学部出身で、学部時代は教育学系に所属していました。大学院に進んでからは人間学系で文化人類学、社会思想史、哲学、人間学などを学び、修士論文は1819世紀の思想家シュラエルマッハーをテーマに書きました。博士後期課程1年が終わる頃、阪神淡路大震災に遭遇し、兵庫県に住んでいた私は大きな衝撃を受けました。それまでは理論を勉強したいという気持ちが強かったのですが、地震のようなことが起こる現実の社会を目の当たりにして、自分が研究者として理論を勉強する意味がよくわからなくなったのです。学会で論文を発表するだけでいいのか、もっと現実に関わる形で理論を研究しなければならないのではないかと考え始めました。自分が今、社会の中で何を人生の問いとしているのだろうというところに立ち戻ったとき、ジェンダーや貧困、階層の格差や差別といった社会問題に小さい頃からかかわってきたことを思い返し、マイノリティの問題に切り込んでいくような理論を勉強したいと思うようになりました。

堂目 阪神淡路大震災が大きな転機となったのですね。先生が最近出された編著『教育学のパトス論的転回』の中で先生が書かれた「蒙を啓くパトス/〈蒙〉に開くパトス」を読みました。「蒙を啓く」とは「できないことをできるようにする」という通常の意味ですが、他方、「〈蒙〉に開く」とはどういう意味でしょうか。著書の中では、「〈蒙〉」とは、「知らないわけでもないが、知っているわけでもないという状態」と書かれていますが。

岡部 本で読んだりテレビで見たりして「知らないわけではない」問題について、その問題に直面している人から本やテレビで得た情報とは違う答えが返ってきたとき、その答えをまずきちんと聞けることがポイントだと思うのです。たとえば、学校などでバリアフリーにしようと手すりを付ける場合を考えてみましょう。手すりが必要なことはわかっているからといって、使う予定の「その人」のことを考えずにとにかく付けてしまうと、手すりが太すぎて使えないということも起こり得ます。ですが、もう付けてしまってあるので、使う人は、自分のためにつけてもらったという遠慮もあって「これは太すぎる」と言いにくい、というようなことが起こり得ます。これは、「知らないわけではないが、きちんと知っているわけでもない」ことを自覚していないから起こる問題です。知っているとわかっていても、もう一度「これでいいのだろうか」と、自分とは違う人生を生きている相手に聞けるような状態が、〈蒙〉に開かれている状態です。

堂目 なるほど。知らないということも知っている、という状態ですね。確かに学術の言葉で説明できるとわかったような気になりますが、本当はその言葉がどう使われるのか、役に立っているのか、あるいは、そうした説明によって奪われたり失われたりするものがあるかもしれない。この事実を知らなくてはならないということですね。ソクラテスの言う「無知の知」というか、知れば知るほど知らないことを自覚するということでしょうか。

岡部 教育学では、理論を個別の事例にあてはめていかなければいけません。一般的な理論を知っていることはもちろん大切ですが、同時に、目の前にいる「その人」のことは十分には知らないということを心に留めておかないと、生きている人間のほうを既成の理論の枠に合わせてしまうことにもなりかねません。理論と実践、理論と現実、どちらもちゃんと知っており、同時に十分に知らないという自覚も持ちながら、教育の領域で理論と実践の間、理論と現実の間を、互いを豊かにするようにつないでいくのが教育学の仕事だと思っています。

社会に新しい風を吹き込む「子ども」

堂目 「〈蒙〉」に向かって開くために「異質な他者との出会いと交流」が必要だとも述べておられますが、それはどういうことでしょうか。

岡部 自分の生活領域の内で安心して過ごしたいのに、新しいものが入ってくると落ち着かなくなる。そうすると、安定した生活を守るために、なじみのないものを見ないようにしたり排除したりするようになります。ある程度安定している社会なら、そのような態度でも何とかなるでしょう。しかし、現代のように、5年もすれば違う価値観が生まれ社会のあり様が変わってしまうような激動の時代には、自分が身につけた価値観だけを信じて守っていたのでは他の価値観に沿って生きている人と対立するしかなくなります。自分の価値観を一旦、脇に置きながら違う価値観の人と話せるという態度が、動いていく世界の中で何とかうまく生きていくことにつながるのではないかと思います。

堂目 自分の価値観を揺さぶるような他者にあえて出会わせる役割が、教育にはあると。

岡部 はい。異質なものと敵対せずに安定した社会を守っていくのが大人の力量だった時代がかつてありましたが、今、大人に必要とされているのは、異質なものに出会い、異質なものときちんと交渉する力だと思います。その力を養う領域を社会の中で広げていくのが、教育にとって大事なことではないでしょうか。

堂目 岡部先生が「教育」と言うとき、その対象は、子どもですか。

岡部 カッコ付の「子ども」です。小さくて弱い、成長させて社会の中に取り込まなければならない存在というだけではなく、社会に新しい風を吹き込んでくれる存在すべてを意味します。

堂目 子どもに象徴されるような存在を社会に手なずけるのでなく、むしろ社会に「〈蒙〉」の風を吹き込んでくれる存在と考えるのですね。そうした存在を育む上で「パトス」に焦点をあてているのが先生の教育学の特徴だと思います。「パトス」には、受動性、感情、情熱、さらには受難など、様々な意味がありますが、「パトス」に着目する理由は何でしょうか。

岡部 近代社会は、人を適材適所に配備し、無駄のないシステマティックな体制をつくってきました。そこには、いつでもどこでも誰にでも同じものが提供される安心感があります。しかし、そこからこぼれ落ちるものもあって、その典型が「人称性」です。他でもない私、他でもないあなた、というかけがえのないものは、いつでもどこでも誰にでも同じものが用意されているという社会の中ではこぼれ落ちてしまいます。しかし、そのような人称性や個別性というものは、人間が生きていくうえで、生きる意味を感じるうえでとても重要なものです。いつでもどこでも誰にでもという普遍性を重視するのがロゴスだとするなら、それに対抗して、この私、このあなたという人称性や受苦性、ままならなさ、冗長性などを象徴するのがパトス。そのようなパトスに焦点をあてた教育学を論じられたらと思っています。

堂目 他でもない、とりかえのきかない私やあなたを支えているのがパトス、共通性を認識していくような能力・機能がロゴスでしょうか。

岡部 そうです。教育学や教育実践は、誰もがいつでもどこでも安心して快適に暮らすことができる合理的な社会をつくっていく一方で、「この私」の人生をきちんと生きられるようにするものでもなければならないと考えています。

「共同」するために知識を使える人を育てる

堂目 岡部先生は、今の教育現場をどう捉えていらっしゃいますか。現場は多くの問題を抱えていて、先生方も相当に疲れているように見えますが。

岡部 今、安心安全に暮らせるという社会の前提が揺らいでいます。発展や新しいよりよい社会がいつか来るという楽観的な希望は容易には抱けません。持続可能と言われますが、今を持続させなければならないというのは結構苦しいことです。特に子どもたちにとってはとても苦しく、それを支える先生方も苦しんでいます。だからこそ教育学は、理論と同時に臨床性をすごく大事にしなければならないと思います。亡くなりつつある、苦しんでいる人のそばに行くという臨床性のもともとの意味のように、問題が起こっているそのすぐそばに居させてもらいながら研究し、そこに応えられるような研究をしていくことが、今、教育学に一番望まれていることではないかと思っています。

堂目 私は持続可能性という言葉にそれほど悪いイメージは抱いていませんでした。しかし、確かに持続は成長ではないので、これからの世代にとって持続できるかどうかの選択肢しかないというのは苦しいものかもしれません。そんな中、教育現場が向き合わなければならない具体的な問題にはどのようなものがあるのでしょうか。

岡部 やはり、今まであった格差や差別がより深刻になっていることでしょう。新たに起こった問題というよりは、成長という希望の陰で据え置かれていた問題が前面に出てきています。今まで何をしてきたのか、してこなかったのかを振り返って、してこなかったことを一つひとつクリアしていかなければならないと思います。同時に、教育学の役目は、知識を実際の生活の中で他人のために、社会のために使えるものとして提供していくことです。従来、勉強する、知識を得るのは自分の幸せのためだと教えてきたのを修正して、人のために何かできる人、社会のために何かできる人が一人でも多く育つなら、望ましい方に向かって人が動いていく社会になるのではないでしょうか。

堂目 より多くものを分け合うプラスサム・ゲームではプラス分を譲り合うことができるかもしれない。しかし、ゼロサムになるとそういうわけにはいかなくなるし、さらに損失を分け合うマイナスサムになると、積極的にマイナスを引き受けるのは非常に難しいでしょう。それを経済成長によって回避しようと言っている間に、地球環境を破壊してしまった。今こそマイナスをどう分かち合うかが問われているのですが、それは教育によって成し遂げられるでしょうか。

岡部 難しいですね。物質的に十分でない中で、精神力で安定しなさい、と子どもや社会的な弱者にいうのは大人や権力者の側の暴力です。しかし一方で、マイナスでもプラスでも、人と分け合うことに意味を見出していくことはできると思います。今、教育学では、equalityでなくequity、平等ではなく公正さを考えられる人を育てようというのが、世界的な目標になっています。幸せを分かち合うときに、提供できるものには多い少ないがあっても、互いが寄り合うことで一人ではできなかった意味が生まれてくるといった「協働」ができる人たちを育てていくことはできると考えています。

堂目 岡部先生は、今、どのような教育の活動に携わっておられるのでしょうか。

岡部 大阪大学人間科学研究科附属未来共創センターで「マイノリティ教育ラボ」というプロジェクトチームを組んでいて、私は主に外国にルーツを持つ人々に対する通訳・翻訳活動にかかわっています。新型コロナウイルスの流行で子どもたちが学校に行かず家で自分で勉強をする期間が長くありましたが、日本語が十分に話せない子どもたちや保護者にとって、そうした家庭での自習は難しいことでした。そこで、教材を9か国語に翻訳して、できるだけ母語で勉強してもらう活動を始めました。大阪大学外国語学部、言語文化研究科、人間科学研究科の学生や留学生が一緒に活動してくれているのですが、これが、さっきお話ししたような「協働」になっています。自分の語学力がこんなに他の人から必要とされている、役に立っていると自己肯定感が高まった学生たちがたくさんいて、そうした学生たちを見ていると、教育人間学で言う「人は必要とされることを必要とする存在」であることを改めて感じさせられます。

この活動が発展して、現在、大阪大学の人間科学研究科と言語文化研究科、日本語日本文化教育センターの教員が協働で、社学連携型高度副プログラム「日本におけるマイノリティ教育の理論と実践」を構築しています。これは、マイノリティ教育に関する知識や技能をもち、格差や差別の問題にも対応できる日本語教育の専門家を社会に輩出するためのプログラムですが、ここでも、学生たちと一緒に、夜間中学に行かせてもらったり、高校生と日本語教育の実習をしたりといった活動をする予定です。

他には、社会ソリューションイニシアティブの伊藤武志先生と協働で、大阪府教育委員会やいくつかの市の教育委員会と連携しながらプロジェクトを進めています。たとえば、大阪府教育庁が実施している「ジュニアEXPO」の取り組みにかかわって、学生と一緒に、中学校の「総合的な学習の時間」の開発に携わらせていただいていたり、大阪府豊中市の公立小中一貫校の体制整備のお手伝いをさせていただくという予定もあります。後者に関しては、いま日本学術会議の会員として、また大阪府の教育委員として、OECDの教育政策アナリストの方々と一緒に、大阪市西成区における教育・福祉の実際について現場の皆様からいろいろと勉強させていただいていまして、そこで学んだことを生かすことができればと考えています。

堂目 阪神淡路大震災を経験された先生は、防災や復興にも関心があるのではないでしょうか。

岡部 はい。私が焦点を当てているのは、発信したいけれどとても今は言葉が出せない、言葉以外のもので何か出てしまっているが気づいてもらえないというような人たちの思いや考えです。個人の経験としても、ひどいことや衝撃を受けたことほどなかなか言葉になりませんが、それと同じことが歴史的な事件や社会的なできごとにおいても起こっています。事件が起きたときに言葉になっていなければどんどん風化し、やがてないことになってしまうでしょう。教育学として、言葉になっていないけれど確かにあるはずのものを読み取っていくような視点や論理を生み出したいと思います。それが誰かに伝わり、見えないものや聞こえない声を一つでもいいから見たり聞いたりしてくれれば、それが社会をよくしていく一つのきっかけになるのではないかと期待しています。

堂目 こぼれ落ちていくものを見るという視点や姿勢がなければ、人間とは何か、社会とはどうあるべきかに迫ることはできないと私も思います。日本の教育現場は、そのような視点・姿勢を、次の世代へ育んでいけるでしょうか。

岡部 今までは社会が豊かだったので、こぼれ落ちてもみんなでセイフティネットをつくれましたが、今は、そこにお金がかけられなくなっています。ここまでは助けられるが、ここからは助けられないと線引きをするのが行政の仕事になっていたりもします。教育は、教育だけの論理ではなく、福祉など他の領域と連動しないと動かなくなっています。教育と福祉を架橋し、行政と協働しながら市民の運動の力もあわせれば何とか人々を助けられるのではないかと考えられる次の世代を育み、誰一人取り残さない社会が実現できればと思います。

どこからこの社会に関わるのかを強みに

堂目 学術知共創プロジェクトでは、社会課題の解決を進めるムーブメントを起こしていきたいと思っています。今日の言葉でいえば、ロゴスに固められた知をただ集め、つなげ、応用するだけではなく、ロゴスの限界を超えて自分たち自身を〈蒙〉に開いていくことが必要です。自分が見落としていることにどう気づくか、こぼれ落ちていくものに眼差しを向けつつ社会課題にどう取り組んでいくのか。さらに、それをまたロゴスに戻してどのように新たな地平を切り開いていくか。非常に難しいことですが、これらを実現するために、先生から何かアドバイスをいただければと思います。

岡部 確かにそれは本当に難しくて、「こうやればいい」とはなかなか言えないのですが。ただ、研究者もこの社会の中で生きている一人の市民であるという感覚を持ち、それをどう自覚していくかが一人ひとりに問われているのだろうなとは思います。カントも、ルソーとの出会いをきっかけに、ロゴスの世界に浸りきっていた閉じた状態から市民としての目を開いていきますが、その喜びを「ここにこそ真の叡智(えいち)があった」と表現しています。

これまで自然科学が強かったのは、地球のどこにもっていっても同じ結果が出るから、便利なものを開発し共有するのに都合がよかったからです。社会の目標が、さまざまに異なる人々が、違いを違いとして認めながら、みんなで一緒に互いが暮らしやすい社会をつくっていくことに変わった今、研究者でありかつ一市民であるという立ち位置から研究できることは、人文学・社会科学の一番の強みになります。

堂目 社会を外から眺めるだけではなく、社会の一員として中から見る必要があるということですね。

岡部 歴史学者のテッサ・モーリス=スズキさんは、今まで学問はtruth、真実を追究してきたがそれだけでは足りないものがある、それはいま生きている人間やかつて生きていた人間に対するtruthfulness、真摯さだと言いました。人文学・社会科学はtruthtruthfulnessの両方とも兼ね備えた学問であることが求められているとも述べています。私は、それは、自然科学にも求められることだと思います。

人間科学部1年生を対象にした人間科学概論という授業で、自然科学の先生とペアを組みました。オオカミに育てられた子どもアマラとカマラの話を取り上げたのですが、最初の授業で自然科学の先生が、生物学的に言ってこのエピソードはあり得ない、嘘だと実証的に語ります。その次の週に私が引き継いで、真実でないエピソードがいまだに世界で広く語り継がれているのはなぜなのかを話します。真実であることと、人や動物やものごとがいまある形で実際に生きている・動いていることに真摯であることが、どううまくクロスするのかを考えてもらうのがねらいです。研究者も社会で生きる一員として、人間が生きているということにtruthfulである研究とはどういうものなのかを考えていけば、truthのみを重視するのとは何かが違う知の創造の場が生まれるのではないでしょうか。

堂目 完全なtruthは得られないわけですから、得られたものから得られていないものを感じ取っていかなければならないわけですよね。truthfulnessとは、つかんでいるものが最終的なものではないということがわかっていること、あるいは、全体が見えていなかったりそれを得ることで失っているものがあることがわかりながら、それでもtruthを求める真摯さということでしょうか。

岡部 そうですね。常に、何かとりこぼしているのではないか、別のあり様もあるのではないかと考える。フーコーが「外の思考」と言った思考のあり様が必要なのかもしれないですね。自戒を込めてそう思います()

堂目 学術知共創プロジェクトの中で、そうした思考を求めていきたいと思います。

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