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記事:対談01~盛山 和夫 × 堂目 卓生~

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学術知共創プロジェクトマネージャー・堂目卓生(大阪大学社会ソリューションイニシアティブ長・大学院経済学研究科教授)と、人文学・社会科学の研究者を中心とした人びととの対話から、人文学・社会科学が社会に果たすべき役割、共創の場を創るヒントを模索します。

◆今回の対談テーマ
「 社会への応答は人文・社会科学の本来の意義-公共社会学の観点から 」

◆今回の対談者の紹介
「人文学・社会科学を軸とする学術知共創プロジェクト」は、社会に向かって開かれ、社会課題に向き合う学術知の在り方を探ることを目的としています。その際、そもそも「社会とは何か」、「社会はどうあるべきか」ということが問われなくてはなりません。このようなことから、長年、「社会」を対象とする研究に様々な観点から取り組んでこられ、また本プロジェクトの総括責任者でもある盛山先生にシリーズ対談のトップバッターをお願いし、人文学・社会科学と社会との関わりについてお話をうかがいました。

盛山和夫 東京大学名誉教授 略歴
1948年、鳥取県生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京大学大学院社会学研究科社会学専攻博士課程中退。博士(社会学)。専門は社会学。著書に『制度論の構図』(創文社)、『社会階層』(共著、東京大学出版会)、『社会調査法入門』(有斐閣)、『リベラリズムとは何か』(勁草書房)、『年金問題の正しい考え方』(中公新書)、『社会学とは何か』(ミネルヴァ書房)、『経済成長は不可能なのか』(中公新書)など多数。

社会科学は純粋には経験科学ではない

堂目 盛山先生のご専門は社会学ですが、著作を拝見すると、数理社会学、理論社会学、規範的社会学、公共社会学など、様々な分野に関心を持ってこられたことがわかります。また、社会調査法や統計学など実証方法の研究や、年金問題など実証的な研究も含め、幅広いアプローチをされておられます。それぞれの関係や位置づけをどのように捉えておられるのでしょうか。

盛山 社会学は雲をつかむような学問で、他の専門分野からは、あまり評判がよくないかもしれません(笑)。僕自身も、大学院生だった1970年代、社会学っていったいどういう学問なのだろうかと苦悶した時期があります。

1950年代から60年代にかけて、社会学には多くのスター学者が登場した華やかな時代がありました。アメリカではT・ パーソンズとか、C・ライト・ミルズとか、日本では清水幾太郎とか、他の学問分野にも影響を与えた人をたくさん輩出しました。彼らは理論的な知を生み出して社会学の隆盛を導きました。しかし、スター学者の理論は、ある種エリートの技によるパフォーマンスなので、それでは自分は一体どう社会学をやればよいのかという問題に悩む、といった状況に陥ったのです。

そうした中で、私が一つの手がかりとしたのが数理社会学という方法でした。そこには、数理という方法や経験的なデータが、探求にとっての共通基盤となり得るのではないかという期待がありました。社会学の様々なパラダイムや理論は研究者の主観で語られる部分が大きいのですが、数理や実証データは、みんなが同じところで話ができる基盤を与えてくれると感じたのです。

その後、主に数理やデータ分析を使った研究をしていました。そして、基本的に経験主義で社会学を推進できるという見通しを持っていました。しかし、研究上の交流を通じて多くの分野やテーマに触れていくにつれ、社会科学は純粋には経験科学ではなく、規範科学でもある、と思うようになっていきました。それが50歳前後でしょうか。

堂目 それは大きな転換ですね。転向といってもいいくらいの。

盛山 そう、転向したんです(笑)。そういう考えから、公共社会学というコンセプトも提示しました。経済学に公共経済学があるのだから、社会学にも公共社会学があっていいのです。

堂目 実証的な見方だけでなく、規範的な見方も必要だということですね。

盛山 社会学に実証性が重要なことは間違いありません。しかし、それで終わるのではなく、経験的現象を実証的に捉える経験科学の手法をベースに、社会はどうあるべきかという規範的な諸問題に取り組んでいくことが、社会学本来の仕事だと考えるようになりました。

今、ジェンダーやマイノリティ、社会福祉、移民、多文化共生など、内外の社会学者による非常に優れた現状分析が盛んに行われています。しかし一方で、今の社会学に欠けているのは、それを他分野や世間の人々と共有し得る知にまとめあげていく試みではないかと感じています。個々の研究は優れていても、全体としてバラバラで、理論的な知識をつくる試みが弱いと言えます。それを克服することが社会学にとって重要なことだと思います。

堂目 その意味では、経済学は、理論モデルがわりとかっちりした学問だと言えます。経済学は社会科学の中でほぼ唯一、しっかりした一般的な理論を構築して実証に生かしており、1960年頃までは、社会科学の理想的な姿としてもてはやされました。

しかし、理論で本当に現実が説明できるのか、あるいは将来が予測できるのかというと、そうでもありませんでした。経済学では、一般性や共通性、体系性が足かせになってしまっているとさえ言えます。世の中の人々が本当に求めている課題に対して納得のいく答えが出せないために、評価や期待を落としているように感じています。

盛山 私も、経済学の理論には経験的な妥当性の問題があると感じていますが、その一方で、市場メカニズムに関する「一般均衡理論」のようなモデルがあるのはいいことだと思います。現象における論理的なメカニズムを拾い出し、それを共通の言葉で理解し合うことができるからです。学問が展開する上では、一定の概念の共通性は必要不可欠で、そのような共同のコンセプチュアル・スキームをつくっていく努力が重要だろうと思います。

堂目 先生が、社会科学は純粋には経験科学ではないと考えるようになったのは、なぜなのでしょうか。

盛山 世紀の変わり目の頃に、国立社会保障人口問題研究所で開かれていた研究会に参加して、政治哲学や経済学など様々な分野の研究者と議論し勉強する機会をいただきました。そこで、リベラリズムの問題を考えるようになったことが大きなきっかけです。

堂目 先生の『リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理』(勁草書房 2006年)を読ませていただきました。ロールズに目を向けられたのも…。

盛山 以前から、階層的不平等の問題を考えるうえではロールズの議論は勉強しておかなければいけないと思っていましたが、リベラリズムが議論しているような、何が正義なのか、どのような不平等なら許容できるのかなどについて考察することは、社会科学の重要なテーマであると考えるようになりました。

振り返ってみれば、社会学はウェーバーの価値自由の議論に強く影響されすぎているところがあります。ウェーバー自身は、経験主義だけに徹した人でないのですが、価値について語ることはできないといった議論をしています。

しかし、その一方で、フェミニズムや差別問題など社会学者が実証的に扱っている諸問題は、ロールズのような理論的・哲学的な議論と鋭く触れあいます。これは、社会学というのは経験的な学問で、規範的な関心とは距離を置くものだ、というのとは違います。

堂目 存在するデータをどう見るかには、見る人の主観や世界観、規範やビジョンが入ってしまっていて、その意味ではデータを扱おうとした姿勢や枠組自体が、ある種の規範性を持っているということは、よく言われています。

盛山 人文・社会科学系の学問の場合、規範性は当然入ってくると思います。人社系の学問は、自然科学とは違い、人間の「思念」がつくりだした世界を探求しているのです。たとえば埋葬の歴史を理解しようとする場合、物的な墓の形状や素材などには自然科学的なアプローチができますが、「埋葬する」とか、「死者の霊」とかというのは人間の思念の中でしかあり得ないものです。そのようなものを探求するのは、私の言葉で言うと「意味世界の探求」であり、当然、規範的なものが関わっています。それは、物的に存在するものを経験的に理解するというのとは違うプロセスに入りこまざるをえないのではないかと思うのですね。

人々の行動と制度についての規範的および実証的な研究

堂目 先生は、現代の社会課題について、どんなことに関心をお持ちでしょうか。『年金問題の正しい考え方』(2007年)、『経済成長は不可能なのか―少子化と財政難を克服する条件』(2011年)、『社会保障が経済を強くする―少子高齢社会の成長戦略』(2015年)などの著作があり、人口が減少し高齢化していく中で、人々の暮らし向きに関心をお持ちなのだと思いますが。

盛山 関心はたくさんあります (笑)。学術知共創プロジェクトで掲げられた3つの大きなテーマである「人口減少や人口構造の変化」、「社会的分断」、そして「情報社会化や生命科学の進歩に伴う倫理・人間性」は、それぞれ非常に大きな課題だと思います。

最近では、パンデミックもそうです。この大問題をどのような仕組みで解決するかは純粋な自然科学の問題ではなく、同時に社会科学的な問題だと感じます。さまざまな制御の仕方が諸国で展開されていますが、どの点がどういう理由でよいのか、どういう理屈で規範的にまずいのかなど、社会科学が考えていくべきテーマが現われていると思います。

堂目 パンデミックの問題は、いのちなのか生活なのかを問う、まさに正義の問題といってもいいですよね。限られたワクチンにせよ病床にせよ誰を優先するか、世界全体が判断を迫られています。

盛山 同時に、古くからある自由の問題ですね。どのような規範的な理由で人の流れを制御することができるか。これは、各政府の取り組みを黙って見ているだけでなく、世界の社会科学者が集まって共通に議論すべきテーマだと思います。

堂目 SDGsも世界の社会科学者が集まって全体で議論すべきテーマですね。達成のための技術を自然科学者に任せておけばすむ話ではないと思います。

盛山 SDGsに関してはかねてから政治過程に研究者たちが動員されていますが、前々から気になっているのはそこにおける人文・社会科学系の学問の関与の仕方が弱いことです。刺身のつまにしかなっていないという印象があります。たとえば、地球温暖化など物的な環境の制御にどのような技術が役立つかというのは自然科学の成果を待たなければならないでしょうが、それを行う仕組みは社会科学的なものです。外部性のある財の最適配分に関するコースの定理を使った排出権取引の考えがありますが、それがどこまで有効かは社会科学の問題です。感染症問題でも、人々の人流を制御するというのは自然科学の問題ではないのです。

堂目 その意味では、学術知共創プロジェクトが掲げる大きなテーマの一つ、「将来の人口動態を見据えた社会・人間の在り方」の代表者である大竹文雄先生が、行動経済学の専門家として、新型コロナウイルス感染症対策分科会の中におられて、人々の行動をどう制御するかに取り組んでおられます。

盛山 非常に重要な試みだと思います。感染症対策において、人々がどのような意識でどのように行動したかというようなデータの収集と分析は大いに必要でしょう。今後、またパンデミックが起こった時に、どんな発信の仕方が有効なのか、法律による禁止やメッセージによる制御などの組み合わせ方を考えていくことなど、必要不可欠な学術的な研究になると思います。

堂目 人間の行動の傾向が全体としてわかると、限られた資源をどこに投入してどうすれば人々の行動を変容できるのか、エビデンスに基づいた政策が打てます。盛山先生が最初に言われた実証性、思い込みや何かの規範が先にあるというのでなくデータに基づいて人々の行動の様式を客観的に見ていくということにつながりますね。

盛山 人の制御という場合、いろんなやり方の中で、どれが望ましいのか。刑法で禁止することは避けた方がいいという一般的・規範的観点があると思いますが、そういう規範的な観点は共有しつつも、現実的にどういうやり方が人々をどう導くのかは実証テーマになり得ます。規範的見方と実証的見方の両方が必要になってくるのだと思います。

堂目 少子化という社会課題については、どのようにお考えでしょうか。

盛山 少子化の問題は難しい。出産・出生はプライバシーであり個人の権利に関わる問題です。これに社会・国家がいかなる形で関与できるかは、規範的な問題になるのではないでしょうか。

個人的には、金銭的、心理的な子育てのコストを軽減する社会保障政策を強化していくのが望ましいと思っています。それが若い人々のオプションを広げ、多少とも少子化を和らげることにつながるのが望ましい。これまでの社会は、出生、出産、子育ては家族や家という個的なものだけが責任を持つという仕組みでやってきましたが、社会変容の中で、社会全体として責任を持つべき課題だと捉えるのが望ましいと思います。

社会の課題への応答をめざした共創の場を

堂目 私は経済学の歴史を研究してきましたので、盛山先生が言われる「理論的なもの」が必要だというのはよく分かります。他方、18世紀、19世紀と比較すると、現代社会は非常に複雑で、変化もものすごく速くなって、経済学の理論だけでは実践性、応用性が持てなくなりました。

社会学になると、対象はさらに複雑になるでしょう。その意味で、隣接の自然科学、あるいは政治学や経済学、経営学などと連携しながら、完全にきれいなものでなくても、何らかの社会現象を説明するような理論知の構築ができないかという話になってくるのでしょうか。

盛山 それが、共創の場ということでしょう。いろんな分野の研究者、いろんな知的背景、属性の違いを持った研究者が集まり、コミュニケーションして共同の課題に取り組むための議論をしていくための場ということでしょう。

今の社会が社会科学や人文学に突き付けている問題は、簡単に答えが出せるようなものではありません。いろんなデータが無数にあり、理論的なコンセプトやその展開もさまざまに行われている。いろんな学問分野で、世界中で展開されているという現状です。これを、一人の研究者が俯瞰的に見るのは不可能な時代になっています。

自然科学の場合は、理論知や学会の枠の中で共通の場があり、専門的な学術雑誌等が、共通の課題に取り組むコミュニケーションの場として成り立っています。ところが、不幸なことに、社会学、政治学、経済学で専門分化が進んだ結果、共通にコミュニケートする場がだんだんなくなってきています。この、現代の人文学、社会科学を取り巻く学問上の危機を克服しながら、同時に社会の課題に応答していくということをめざすというのが、共創の場の課題だと思います。

堂目 学術知共創プロジェクトでは、2021年1~2月に、まさしくそのような試みを、30~40人ぐらいのワークショップの形で行いました。専門が違っていたり、世界の見方や社会の見方、そこに入る主観的なものが異なっていたり、狭い世界で訓練されてきたことが影響してコミュニケーションが取りづらいという場面もありました。「共創の場」が本当に共創の場になるためにわれわれが心掛けないといけないことは何だとお考えでしょうか。

盛山 これからは、私たちのプロジェクトだけでなく、いろんな試みが広く日本社会の中で展開されていってほしいですね。かつて日本には総合雑誌があり、政治学者や経済学者、社会学者、心理学者など、さまざまな分野の研究者たちが同じ問題について議論していた。そのような議論がなされる共通の場をつくっていくことが必要不可欠ではないでしょうか。

堂目 集まった人がアソシエーションみたいなものをつくり、自由に語り合いながら総合的なものを発行していくという場ですね。荒っぽかったりもするが、いろんな分野の最先端の専門知もちゃんと入っているような。

共創にはもう一つあります。企業や地方自治体など、目の前の課題に取り組んでいる人たちがあげている声、持っている経験知も最終的には取り込んでいかないといけないと思っています。

盛山 それは、すでに様々に展開されています。社会学では、障害者や移民の人たちと寄り添いながら研究をするなど、現場と密接に協働している人がたくさんいます。経営学や法学や情報学関係でも現場の人たちとのコミュニケーションは活発です。

ただし、気を付けなければならないのは、研究者は運動家とは違い、より客観的、普遍的なものに置き換えていく努力を忘れてはいけないということです。障害を持った人たちの研究をしている人と情報社会の問題をやっている人たちとが、共同の言葉で語っている場はなかなかありませんが、共創の場とはそうした可能性を追求するものでしょう。

堂目 多くの研究者が現場と協働しているのに、どうして、人文・社会科学系の研究者は象牙の塔にこもっているように見られ、全体として役に立っていないと思われてしまうのでしょうか。

盛山 一つの要因は、日本社会では研究者が企業に行ったり、企業の人が研究者になったりという交流が少ないことでしょう。

人文・社会科学系の側にも、問題があります。数年前、人文・社会科学系の学問が役に立っていないと批判されましたが、そのとき、役に立たないのが人文・社会科学系の学問の骨頂だという開き直りみたいなものが一部でみられました。

しかし、人文・社会科学系の学問は、社会の課題に応答してきたのがもともとの出発点であり、本来の存在意義でもあります。社会について批判すべきことは批判する。しかし、それは、単に距離を取ることではなく、課題を引き受けることです。

堂目 私も全く同意見です。

古典を乗り越え新たな学術をつくる

堂目 ケインズ、アダム・スミス、マルクスといった人たちは、まさしくプラトン、アリストテレスから脈々と続く哲学、理論知を受け継ぎながら、政策提言どころか世の中に大きなムーブメントを与えてしまうような知を創ってきました。その意味では、古典を引き継いでいくことが非常に重要だと思うのですが、先生は、どのようにお考えでしょうか。

盛山 現代社会は、近代社会思想が出発点となってつくられています。憲法という仕組みにしても、人権や自由・平等というコンセプトにしてもしかりです。人文・社会科学系の学問は社会に応答しているだけでなく、社会をつくっている責任があるのです。同時に、現実の社会のいろんな課題を解決していかなければなりません。それは、基盤となっている学問を見直して、乗り越えなければならないものがあるなら乗り越えて、新しい学術をつくっていくということです。

今の社会をつくっている思想について、常に反省的に捉える作業をやらない限り学問の発展はありません。そのことを、多くの人が忘れているような気がします。日本でいえば、教養学部や教養課程を廃止したというのが典型的なことでしょう。これは、日本だけでなく、アメリカの大学でもそうです。つまり、小手先の技術的な知識があれば社会の問題は解決できるかのようなムードが、1970年代以降、強くなったのです。

他方、人文・社会科学系の学問が、さっき言ったように、現実社会に対して批判的になりすぎていることも問題です。もちろん、資本主義や経済的なものを批判的に見るということは必要ですが、他方で、その延長線上に科学や学術知そのものを否定するかのようなムードも感じられます。それも、教養的なものを軽く見る要因ではないかという気がします。

ただし、単に古い学説を金科玉条のように知識として勉強することがいいわけではありません。アダム・スミスやマルクスの学説も、常に反省的に捉えながら、それらの現代的な意義に照らしながら教えていくことがない限り、古典教育というのは成り立たないと考えます。

そうした教育を実践するのは、大変難しいかもしれません。しかし、われわれ人文学・社会科学の研究者は、自分の最先端の学問が古典的な知識をどこで乗り越えようとしているのかを常に捉えながら研究することが重要で、それが古典教育の中にフィードバックされていく。そういうプロセスがうまく確立されてほしいと願っています。

堂目 ヨーロッパの歴史で言えばルネサンスですね。現実を超えて社会変革を起こし未来を描いていくには、今何が足りないのかを参照するために、もう一度古代に戻ってそこから自由に考えてみることが繰り返されました。先生のお話をうかがい、未来を創るために古典に立ち返ることの大切さを改めて感じました。

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